1980年5月に大韓民国全羅南道の道都・光州(クヮンジュ)市でおきた反政府運動が武力弾圧された事件。79年10月26日の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領暗殺後、翌日から崔圭夏(チエ・ギュハ)首相が大統領代行に就任、非常戒厳令を敷き、同年12月には全斗煥(チョン・ドゥホァン)将軍が粛軍クーデタをおこして軍および政府の実権を握った。朴政権の強権的な政治が倒されたことで、政治の民主化にむけての動きがみられ、一時期「ソウルの春」とよばれる状況が生まれた。しかし、この動きを急激にすぎると警戒した軍部が非常戒厳令を拡大・強化して、金大中(キム・デジュン)ら多数の反政府活動家をとらえると、学生を中心とした抗議のデモが広がった。

1980年5月1日、全斗煥将軍は、学生の政治活動を禁止し、大学には休校という処置をとらせた。これに反発した全南大学の学生は、18日に光州市内で街頭デモを決行、武装した市民をまきこんで21日には全市を制圧、これに軍が反撃して27日には逆に武力制圧、この間一般の市民をふくめて多数の死傷者をだす結果となった。公式発表では死者は191人とされたが、実際にはこの数字を大幅に上まわったともいわれる。

粛軍クーデタと光州事件の首謀者だった全斗煥は、1980年8月から88年まで大統領をつとめたが、95年末から翌96年初めにかけて盧泰愚(ノ・テウ)前大統領らとともに両事件における行動を軍反乱罪と内乱罪に問われて逮捕・起訴され、同8月にソウル地方法院で有罪、全斗煥は死刑の判決をうけた。その後、控訴審をへて、97年4月、大法院(最高裁)は無期懲役の判決をくだした。

その後、1997年12月の大統領選で野党の金大中が勝利した直後に、金泳三(キム・ヨンサム)大統領は金大中との合意にもとづいて、特別赦免で両者を釈放した。光州事件の真相解明も進み、光州では毎年慰霊祭が挙行されるようになった。

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